私がアナウンサーになるまでの話~就職活動から内定まで~
いつもありがとうございます。
最近セミナー講師を務めることが多いのですが、話している時の顔写真が毎回ひどくて公開不可能なのが悩みです。キメ顔のセミナー講師現場写真が喉から手が出るほど欲しい宮坂珠理です(笑)。
さて、今日は女子アナ就職活動から内定までのお話をお伝えしていきましょう♪
東京キー局の壁は富士山よりも高し!!
さて、女子アナ就職活動にはかかせない「つっこみどころ満載の履歴書」と、かなり頑張って撮ったプロフィール写真を片手に全国行脚を開始したワタクシ。まずは最難関!東京キー局です。今はどうなっているのかわかりませんが、私が受験したころはアナウンサー試験は「大きな都市」から試験がはじまっていきました。あ、そうそう。よく聞かれるのですが、地方局のアナウンサーは、キー局からの出向ではないんですよ^^。
全国200以上もある放送局それぞれが自社のアナウンサーを採用しているんです。ですので、試験もその数だけあり、受験生は内定するまで全国を行脚することになります。
キー局のアナウンサー倍率は4000倍ともいわれる超狭き門。まずは書類通過がマストです。練りに練った「つっこみどころ満載の履歴書」の効果か、書類はすべて通過。
次は一次面接。まず最初は日本テレビとTBS。面接会場には何十ものブースがあって、ほとんど流れ作業的に面接が行われます。
日テレ、TBS一次通過。ところがどっこい!! ここでトラブル発生。日テレ2次とTBS2次が見事にバッティング!!やむなくTBSを選択。ここで日テレは敗退。。。。。それからフジ、テレ朝、テレ東と1次が続いたものの、すべて2次で敗退。そんな中、奇跡的にTBSは順調に進み、ついに!「アナウンサー研修会」という名の採用試験まで残ることができました。
メンバーは10名程度。ここから1週間ほどの研修を経て、合格者は役員面接に進みます。この時に一緒に受けたメンバー数人が、のちのち超人気アナウンサーとなって活躍しています。(TBS 安住アナ、小倉アナ、テレ朝 庄田アナ、川北アナ、日テレ 長谷川アナなどなど・・・・)今から考えてみると、ものすごく豪華メンバーと一緒に研修を受けることができたんだなあと思います。
全国行脚の就職活動
残念ながら私はTBSアナウンサー研修会で敗退。しかしながら、この研修会での様子は全国のTBS系列放送局に情報が流れていたらしいので、その後、TBS系列の放送局受験では、ほとんど最後まで残ることができました。
関東弁だったため(?)敗退!大阪局受験
TBSが残念な結果となった翌日から、私の就職活動全国行脚がスタートしました。東京キー局の次は大阪の放送局です。大阪では朝日放送、毎日放送などの試験を受けに大阪まで新幹線でGO!
東京出身者にとってはかなりのハンデがあるのがこの大阪。基本的に大阪の放送局では「関西弁ネイティブ」でないと採用されないというのがほとんどです。何とか毎日放送の役員面接まではたどり着けましたが、地元意識の高い地域ですので、よそ者が入り込む隙間はありませんでした~。撃沈・・・。
ついに主要都市(ローカルA局)受験へ
大阪が終わると今度は主要都市に範囲が広がります。広島、仙台、札幌、福岡、名古屋などがこの時期。こうした主要都市にある放送局のことを業界用語ではローカルA局と言います。
アナウンサー採用試験の世界は狭いもので、この頃になるとカメラテストまで進んでくる人は毎回同じような顔ぶれだったりします。試験会場で、「あ!またあったね~」なんて会話が所々で聞こえてきたりするのです。
今週は広島へ、そしてその翌日には名古屋、そして仙台と怒涛のスケジュールをこなしながら就職試験は進んでいきました。
カメラテストではその土地のネタを入れ込む!
カメラテストでは、たいてい1分から3分のフリートークが出題されます。そんな時に大いに役立ったのが「地元ネタ」でした。
これはビジネスにも言えることですが、その会社(放送局)に採用されたい!!と思ったなら、とにもかくにもその会社や放送局のある場所(地域)のネタを仕入れることは大前提です。
カメラテストを受けるときには必ずその前日には放送局のある場所まで行き、1日かけて町の様子を調べます。今の時期はどんな行事があるのか?お祭りは?名物の食べ物はどんな味なのか?
自分というフィルターを通した「地元ネタ」が、フリートークの格好の材料となるのです!
私は「色」という切り口でその土地の「地元ネタ」をフリートークしてきました。たとえば広島といえば、広島カープ、宮島の鳥居の「赤」。仙台はケヤキ並木か美しい定禅寺通りと、名物「ずんだ餅」の「緑」などです。
相手の心を動かすには相手の懐に入り込む!これってどんなことにでも言えることなのではないでしょうか?
まさかの面接大遅刻!からの内定!!
(※またまた東北放送時代の写真。こちらはラジオカーで県内中を駆け回りラジオリポーターをしていた時のものです)
全国行脚の旅を経て、最終的には名古屋の中部日本放送と、仙台の東北放送から内定を頂くことができました。どちらの放送局も大変魅力的で、ギリギリまで迷いましたが、最終的には一番最初に内定を出していただいた東北放送に入社することに決めました。
実は、東北放送の東京での一番最初の面接のときに、私は道に迷ってしまい大遅刻をしてしまったのです。
本来ならここで即アウト!!だったのですが・・・。とっくに終わっていた面接時間を延長し、受けさせてもらうことができました。最初からとんでもない受験者だったにもかかわらず、私をアナウンサーとして採用してくれた東北放送に感謝してもしきれません!!
大学3年から続いた、いえ、小学校5年生の時から続いた私のアナウンサーへのチャレンジはこうして実を結ぶこととなりました。
アナウンサーになるまでの道は、決して緩やかではありませんでしたが、あこがれの職業に就くことができた私は本当に幸せ者だったなあと今さらながら実感しています。